謝るとは
以前こんな記事を書いた。
この中で謝り続けている人を知っていると書いたが、少し紹介しようと思う。
相手は一回り以上年上だが、彼と呼称する。
彼との出会いはもう二十年以上前のことになる。
たぶん自分が小学校の低学年くらいだっただろう。
交通事故の加害者が彼で、被害者が自分の父と妹だった。
いわゆる信号無視による事故だったが、父は骨折の重傷を負い、妹は重体になり翌日亡くなった。
どれぐらいの期間かはわからないが、当然彼は罪を裁かれた。
たぶん裁かれてからだと思うが、妹の月命日にお参りにやってくるようになった。
カセットテープの祝詞を一緒に唱え、神棚の前で申し訳なさそうに頭を下げ、自分たちに「申し訳ありませんでした」と正座で頭を下げる。
これをずっと続けている。
今では月命日でお参りすることは無くなったが、年に一回命日付近の日曜日に必ずやってきて、未だにお参りして帰っている。
彼は来る前に電話で確認してからくるが、自分たちの都合が悪く家に居ないこともあった。
そういう時には、『お祈りをさせていただきに参りましたが、ご不在でおられるようですので、内前にてさせていただきます。申し訳ありませんでした』という紙が、お供えと共に添えられていた。
彼の真摯な態度に、自分たちの都合で家に居られない時は自分は心を痛めた。
自分は被害者側で、一度も伝えたことはないが彼のことを許している。
しかし、自分以外の身内は許すことが出来てないと思う。
父は骨折がちゃんと治らず、普通に走ったり、正座したりできない体になった。
寒くなると手術の時に入れた金属で体が痛むそうだ。
許す許さないは様々なことで変わってくるだろう。
事故の当事者、けがの程度、大人か子供など。
自分は子供だったから、人が亡くなるということを理解できていなかったり、大人ほど複雑な心理になっておらず、彼を完全に許すことができている。
一方身内の大人は裁判などでバチバチに戦ったのだろう。
彼を許してはいないし、これからも完全に許すことはないみたいだ。
日々ニュースで犯罪が取り上げられているが、裁判でよく用いられる情状酌量の余地は必要なのか疑問に思う。
それは裁判までの間に謝罪の意が被害者側に到底伝わると思えないし、犯した罪に年齢や境遇など関係なく裁かれるべきだと思っているからだ。
情状酌量の余地をなくすぶん、しっかり反省した模範囚としての刑期の短縮なら受け入れられる。
それは弁護士による助言に頼らず、自分の意志で少しでも早く社会復帰したいというのが見えるからだ。
あくまで模範囚なら刑期の短縮を受け入れられるというだけで、許すのには継続的な謝罪の手紙や釈放されてからの行動にもよるのは言うまでもない。
兄として間違っているが、『妹を殺したのが彼でよかった』と思っている。
おそらく殺したのが他の人で、裁判だけの謝罪ならここまで思うことはなかっただろう。
人は許すことができる存在だ。
兄として『妹を殺したのが彼でよかった』というのは間違っている。
しかし、人として罪を許したというのは間違っていないように思う。
親としての立場を知った今、妹じゃなくリサを失った時に同じく完全に許せるかと言われれば、答えはノーだ。
だが、彼みたいに真摯な態度なら半分くらいは許せると間違いなく言える。
リサの子育てに関して「ありがとう」と「ごめんなさい」だけは徹底的に教えていきたいと思っている。
勉強は二の次でいいから、人として豊かになってもらいたい。
彼の謝罪はいつまで続くかわからない。
父が「もう来なくていい」と言うか、彼が死ぬまで続くかもしれない。
だが、彼の罪の気持ちはいつかきっと晴れるだろう。
犯罪や不倫などで政治家や芸能人はかなり騒がれるが、謝罪会見や一度姿を消すことによって許されたと思い活動を再開する人たちがいる。
その姿を見て、罪の意識があったのかすら疑いを持つことがある。
彼らは政界や芸能界だけでしか罪を贖えないとでも思っているのだろうか?
いや、そんなことはないだろ。
日本は自然災害によって毎年のように苦しめられている。
高齢者や子供関係なく、ボランティアで災害復興をしている地域だってある。
一定の期間ボランティアで地域や社会貢献をし、罪を悔いてからの復帰でも遅くはないはずだ。
謝って許されるまでには時間がかかる。
一度謝ってからが始まりで、ゴールなど見えない。
彼は許されなくても後悔しない生き方を選んだ。
もし交通事故など、意図せず罪を犯すようなことがあったら、自分も彼のような後悔しない生き方を選ぶと思う。
謝らないことが一番の罪だと彼に教えられたから。