憎んだ身内
以前この記事で妹を交通事故で亡くしたことを書き、加害者の彼を自分が許しているという胸の内を書いた。
今回は、妹が死んだことにより憎んだ身内のことを書いていく。
母は自分が小学校高学年くらいの時に、筋力が衰えたり脳が委縮して物事を忘れていく病気になり、身体障害者の一級になった。
原因は不明。
医者も手の施しようがなく、病気が進行してベッド以外で生きられない体に段々となっていった。
医者の見立てでは治ることがないと言われ、母の持ち物を整理することに至る。
すると、値札がそのまま付いた高価な服が何着も出てきた。
値段は10数万や10万近くするものが数着。
いつ買われたものかはわからないが、無駄遣いが発覚した。
うちは裕福ではなく、一着10数万の服が買えるほど余裕のある家庭ではなかった。
どこからお金を出して買ったのかを子供ながらに考え、一つの結論を導き出す。
交通事故の賠償金を無駄遣いしていたのじゃないだろうか・・・
妹の命が「一度も着ることのない服(ごみ)」に変えられた。
そう思うと憎しみしか湧いてこなかった。
子供は平気で親を憎むことができる
これが母を反面教師にして得た教訓だ。
そんな母だが、今年の四月に亡くなった。
葬式会場で白くなり生気を完全に失った死体を見た時、憎んでいたのに悲しみが湧いてきた。
そこで、いくら憎もうが親は親なんだと気付かされたのだ。
憎んでさえいなければ、見舞いに行ったり看取ったりという大切な時間がいっぱいあっただろう。
だけど自分の場合、気付いた時にはもう遅かった。
子供に親を憎ませるのは不幸なことでしかない。
世間では不倫をしたり犯罪に手を染める親がいるけれど、それを子供が知れば憎まれるという事を自覚しているのだろうか?
もし、子供に重い十字架を背負わせてもいいと考えてるなら離婚を考えて欲しい。
大きな傷をつけず、子供に新しい家庭を得るチャンスを与えて欲しいから。
母に関してはこれくらいなので、次は母方の祖父について書いていく。
祖父を強く憎むようになったのはいつからか正確には覚えていないが、二十歳を過ぎてからのことだ。
きっかけは何かあった時に母の延命処置をしないという同意書にサインした後だった。
その時に祖父は、いかにも自分が正義の行いをしたという風に語ったのだ。
交通事故の時、妹の延命処置をしないと決めたのは自分だと。
祖父の話では、医者から「意識不明の植物状態で成長しても生理は来ますよ! どうされますか?」と言われたそうだ。
祖父の答えは孫に不幸な人生を送らせないために「殺してください」というもので、自分は正しい事をしたという認識を持ちながら話していた。
まだ携帯電話が普及している時代ではなく、容易に連絡を取れる状況ではなかった。
時代が祖父の独断を許してしまったのだ。
あの日延命処置を選んでさえいてくれたら、顔を赤く腫らした死体ではなく、必死で生きようとしている妹に会えた可能性だってある。
看取ることもできたかもしれない。
そう思うと、憎しみが沸々と沸き起こり、自分の中で妹を殺したのは加害者と祖父という認識になった。
今現在、一年に一度必ず謝罪に来ている加害者を許してはいるが、祖父を許そうという思いは微塵も持っていない。
その理由は、 延命処置の話を聞かされた数年後、医者にこう言ったからだ。
「ワシの生きている間に娘(自分にとっては母) が死なないと、自分が死んでも死にきれん。延命処置をやめて殺してくれ」
何もこちら側には相談もなく、いきなりこんなことを言い放った。
医者はそんなことはできないと拒否したので未遂に終わったが、妹の次は自分の娘を殺そうとする姿に、憤りを覚え一生許さないという思いを植え付けられた。
母と同じ病気で叔父さんの方が母より先に死んだが、祖父は延命治療をしないでくれという意向を反映させたかは不明だ。
この話を詮索するつもりはないので、これ以上の情報を知ることはないぶん、もしかしたら息子も殺していたかもしれないという思いはずっと拭えないだろう。
自分が辛いので殺せばいいという祖父のような考えは間違っている。
この考えは延命治療を推進しろと思っているわけではなく、家族の話し合いもなしで決めるのは、絶対に違うと言いたいだけだ。
独裁者に従うだけの生き方は幸せをもたらせない。
某国のニュースを見ると常に感じている。
いま子育てをしながら思うのは、子供の意見をしっかり聞かなければ親が独裁者になりかねないという事だ。
親が子供にあれやっちゃダメこれやっちゃダメと決め、したくもない習い事をさせるけれど、子供にとって幸せなのかは疑問でしかない。
だからうちは、話し合いの場を設けたうえで最終的に子供に任せようと思っている。
自分の場合、母が死んだことで憎しみを絶った。
死んでなお憎み続けることに意味が見いだせなかったという方が正しいかもしれない。
末代まで祟るという思いを持ち、憎む相手が死んだ後も憎み続ける人もいるかもしれないけれど、憎しみに囚われても自分に幸せなんてやってこないと思う。
今回祖父のことを憎んでいると書いてきたが、実際に会った時以外憎しみを感じている時間はない。
普段は忘れているからこそ、今の幸せを感じられている。
しかし、祖父が死ぬまで心の片隅に憎しみがはびこり続けるだろう。
憎しみを持つのはマイナスなことだが反面教師として学べることが多く、自分にとってはプラスになった部分もあって、子育ての方針を決めるのに役立つことができた。
現在憎むべき相手がいる人は誰かを憎んだだけで終わらせず、何かを学んで今後の人生に活かしてほしいと思う。